何不自由ない裕福なイメージのデヴィ夫人。
若い頃はとてもきれいな容姿でありながらも、生い立ちは壮絶なものでした。
そこで今回は、デヴィ夫人の若い頃について、
- きれいすぎる写真
- 生い立ちが壮絶すぎて泣けるエピソード
をまとめていきます。
画像|デヴィ夫人の若い頃がきれいすぎる!
バラエティ番組で大活躍されているデヴィ夫人。
美人と話題の若い頃デヴィ夫人の画像をさっそく見ていきましょう。
そのきれいさに、びっくりするはずです!
引用元:https://www.planetpixmedia.com/
まるでモデルのような若い頃のデヴィ夫人。
スッとした鼻筋や大きな瞳が美しすぎると言われています。
小顔が際立っています。
若い頃のあどけなさが感じられる一枚です。
意外にも純日本人なデヴィ夫人。
若い頃も着物を上品に着こなし、とても似合っていてきれいです。
エレガントな目元が印象的です。
あごのラインもシュッとしていてきれいですね。
デヴィ夫人の一人娘であるカリナちゃんとのお写真。
お母さんになっても変わらずきれいです。
デヴィ夫人の若い頃はどの画像も気高い美人であることが分かりました。
デヴィ夫人の若い頃の生い立ちが壮絶!エピソードが泣ける!
若い頃とてもきれいだったデヴィ夫人。
しかしその生い立ちは壮絶過ぎるエピソードばかりです。
デヴィ夫人の生い立ちを時系列で見ていきましょう。
①生家は裕福ではなかった
デヴィ夫人の日本名は「根本 七保子(ねもと なおこ)」といい、
日本人同士の親から生まれた純日本人です。
ハーフ、もしくは外国人だと思っていた人も少なくないのではないでしょうか。
デヴィ夫人が生まれた東京西麻布の家は裕福ではなく多額の借金も抱えていたそうです。
今のデヴィ夫人からは想像もつきませんね。
さらにデヴィ夫人が生まれた1940年は、太平洋戦争真っただ中。
戦争中は母親と弟の3人で福島県へ疎開もしていたそうです。
②15歳、バイト掛け持ちの社会人生活
実家が多額の借金を背負っていたデヴィ夫人。
中学卒業後、定時制高校に入学すると同時に生命保険会社に入社。
(なんと倍率150倍の超難関就職先…!)
高校生であると同時に社会人として仕事もしていました。
デヴィ夫人は若い頃から、頭が良かったようですね。
さらにダブルワークではとどまらず、
昼休憩や休日にもバイトを掛け持ちして家計を手助けしていました。
③16歳でホステスに
そんな中、多額の借金を残したまま、大工だった父親が他界。
家計はますます火の車になったため、デヴィ夫人は高校を中退されます。
弟を学校に通わせるため、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスになりました。
若い頃のデヴィ夫人の美貌から想像するに、高級クラブでの人気もさぞ凄かったことでしょう。
高級クラブ「コパカバーナ」のお客様は海外の政財界の大物ばかり。
そう願っていたデヴィ夫人は、
- 英語の勉強
- 日舞
- ダンスを習い始める
など、自分磨きを惜しみませんでした。
結果として若い頃の美貌とストイックさが、貧しかったデヴィ夫人の人生を大きく変えることとなるのです。
④19歳、偶然通りかかったスカルノ大統領に見初められる
19歳になったデヴィ夫人。
ある日友達と映画を見る約束をし、旧帝国ホテルで待ち合わせをしていました。
そこへ同ホテルで来日パーティーを開いていたスカルノ大統領一行が偶然通りかかります。
デヴィ夫人をスカルノ大統領が見初め、その場で後日開かれるティーパーティーに誘われたのだそうです。
その時はスカルノ大統領のことを知らなかったデヴィ夫人。
ティーパーティーで初めて、インドネシアの大統領だと紹介されたそうです。
なんとも羨ましい、完璧なシンデレラストーリーですね。
⑤22歳と61歳の超年の差婚!大統領の第3夫人に
スカルノ大統領の誘いでインドネシアに渡ったデヴィ夫人。
バリ島の離宮で美しい夕日を見ながらスカルノ大統領がプロポーズ。
プロポーズの言葉がこちら。
なんとも大統領らしい、知的なプロポーズの言葉ですね。
当時デヴィ夫人は22歳、スカルノ大統領は61歳と約40歳差の超年の差婚!
こうしてデヴィ夫人はスカルノ大統領の4人いる妻のうち、3番目の妻となりました。
日本人で海外の国家元首の妻となったのは、デヴィ夫人ただひとりです。
⑥母の他界、2日後の弟の自殺
インドネシア大統領の妻になったことで日本では一躍有名になったデヴィ夫人。
しかし、この結婚はデヴィ夫人にとって良いことばかりではありませんでした。
- マスコミがデヴィ夫人の実家を執拗に取材→体調の悪かった実母が他界
- 母の死に目に会えない&全財産を詐欺で失う→2日後に弟も自殺
この2つの悲劇は、今でもデヴィ夫人の重いトラウマなのだそうです。
そして家族を失ったデヴィ夫人は日本国籍を捨て、インドネシアの国籍を取得。
「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」として生きていくことになりました。
⑦大統領の失脚と死
引用元:https://xn--u9jy52gltai77a119b6fc.com/
デヴィ夫人が25歳になった時、インドネシアでクーデターが発生しました。
- スカルノ大統領の辞任を求める声が高まる→大統領は失脚、軟禁状態に
- 身の危険を感じたデヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望→国際的立場上認められず
- 27歳で長女カリナちゃんを出産、その後2人でフランスに亡命
- 亡命から3年後、スカルノ元大統領死去
大統領死去の知らせを受けたデヴィ夫人は、娘を連れて自分を亡命に追いやったインドネシアに、
死を覚悟して渡り、大統領へ会いに行ったそうです。
⑧巨額の遺産相続、各国を飛び回り美貌を活かす
大統領の死後、デヴィ夫人は各国を飛び回りました。
美貌を活かして芸能活動をしたり、多くの要人との関係を持ったそうです。
また、スカルノ元大統領の巨額の遺産を受け取っており、
それを資金に投資でさらに富を増やしていったという説もあります。
現在の豪華な暮らしぶりはスカルノ元大統領のおかげですね。
⑨日本へ帰国、バラエティーのご意見番に
日本へ帰国したデヴィ夫人は、50代後半から日本のバラエティー番組に出演。
その歯に衣着せぬキャラクターから一躍人気となりました。
現在ではあらゆるバラエティー番組のご意見番として活躍しています。
若い頃から壮絶な生い立ちのデヴィ夫人。
持ち前の美貌と頭の良さ、ストイックさで乗り越えてきたのです。
今後もデヴィ夫人の活躍、そして若い頃のエピソードにも引き続き注目したいと思います。