2015年1月29日に96歳でお亡くなりになった、日本人女性初の国会議員・園田天光光さん(旧姓:松谷天光光さん)の人生が壮絶だと話題になっています。
朝ドラヒロインのモデルになってもおかしくない人生を歩まれた松谷天光光さんは、どんな人だったのでしょうか?
今回は、そんな松谷天光光さんについてプロフィールや政治家になった経緯、略奪婚について詳しく紹介します。
松谷天光光さんのプロフィールは?名前に込められた意味通りの人生

- 名前:園田天光光(そのだ てんこうこう)
- 旧姓:松谷天光光(まつたに てんこうこう)
- 生年月日:1919年1月23日
- 没年月日:2015年1月29日(96歳没)
- 出身地:東京都(上野)
- 出身校:青山学院→東京女子大学英語専攻部→早稲田大学法学部
- 所属政党:自由民主党
- 配偶者:園田直
- 在任期間:1946年~1952年
「天光光」という名前は本名で、実業家の父・松谷正一さんが『明治維新の志士のような革命家になって欲しい』、『「光」が世の中の光になってほしい』という願いを込めて命名されたそうです。
その願い通り、天光光さんはそれまでの日本に大きな革命と、日本の女性に大きな光をもたらすことになります。
天光光さんの妹の名前もユニーク
天光光さんは4人姉妹の長女として生まれ、3人の妹の名前はそれぞれ、次女:「天星丸」(てんほしまる)、三女:「天飛人」(あまひと)、四女「徳子」(とくこ)といいます。
四女の徳子さんだけは、出産時に亡くなった母(正一さんの妻)と同名だそうです。
また、天光光さんの父・正一さんは「これからの女性は男性と同じ理解力を持たないと生きていけない」という考えの方だったそうです。
その意思をハッキリと引き継ぎ、国会議員になった天光光さんだけでなく、妹たちも医師や公認会計士として活躍されました。
(左:天光光さん、右:妹の天星丸さん)
天光光さんの晩年は、3歳年下の妹・松谷天星丸さんが姉を介護。
脳神経医学者の天星丸さんは82歳から10年間、姉妹2人で暮らしていたそうです。
早稲田大学の受験面接で教授と口論になった松谷天光光さん
松谷天光光さんは、1940年に早稲田大学法学部へ進みますが、実のところ第一志望は早稲田大学の政経学部だったそうです。
「女性は英語の勉強時間が少ないから原書が読めないだろう」と意味不明な理由で入学願書さえ手に入らなかったところから、やっとの思いで受験にこぎつけたものの、面接で次のような口論になってしまいます。
面接官:どこに就職するつもりか?
天光光さん:早稲田なら人間一人が生きていけるように育てていただけると信じてきました。
面接官:生意気をいうな。女なんか、かまどの前に引っ込んでいろ!
今の時代から考えると理解不能なやり取りですが、当時(1940年・昭和15年)の女性の立場や扱いはこのような状態でした。
女は外に出ずに家事をする、働くなんてもってのほか。そんな時代に松谷天光光さんは戦いを挑みました。
結局、政経学部は不合格になったものの、同じ早稲田大学の法学部には合格。当時、女性の社会進出に理解がある学部として有名な早稲田大学法学部でも、学生が300人いる中で、女性はたったの3人だったようです。
松谷天光光さんが日本初の女性国会議員?きっかけの「餓死防衛同盟」とは?

1945年(昭和20年)8月15日に終戦し、神奈川県川崎市に疎開した松谷天光光さんは、同年10月1日の朝、ラジオ番組で「上野公園で餓死者が累々と横たわっている」との知らせを聞きます。
すぐさま父・正一さんと共に生まれ故郷の上野へ足を運び、飢餓で苦しむ路上の人々を目前にして、いてもたってもいられなくなった天光光さんは、帰宅途中に新宿駅で途中下車します。
父・正一さんの勧めもあり、新宿駅街頭で現状の危機打開を演説されました。
上野で餓死していく人を見たばかりですから。その様子が胸にうずまいていました。明日は我が身とも思えたのです。
「餓死しないように自分で自分を守らなければいけない。私たちはあの戦争を生き延びたんです。ここで餓死しては相すまんと思いませんか」と訴えた。
天光光さんは、その日から毎日、繰り返し同内容の演説をされました。
そのうちに、天光光さんの目の前には1千人以上の聴衆が集まり、やがて彼女の演説に共鳴した人々とともに「餓死防衛同盟」を結成し、食料の調達ルートの開拓や、官庁・議会への陳情・デモを行いました。
そして、天光光さんは1946年・昭和46年4月の衆院選に「餓死防衛同盟」から立候補し、日本初めての女性代議士となります。
「白亜の恋」って?松谷天光光さんの壮絶すぎる略奪婚

1949年に民主党の園田直さんとの恋愛が発覚します。ここで大問題なのが、園田直さんには妻子があったこと。松谷天光光さんとは、いわゆる不倫関係だったことです。
公人同士、真っ白(=白亜)な国会議事堂が舞台の恋愛だったので『白亜の恋』といいます。
最初は「虚偽報道」と否定していた天光光さんですが、「妊娠」という事実が明らかになってしまい、父・正一さんの猛反対を押し切っての結婚をされます。
現職国会議員の妊娠・出産は憲政史上初めての出来事だったので、当時の新聞で大々的に報じられました。

ここで記しておきたいのが、追い出された園田直さんの前妻・よし子さんは、舅(園田直さんの父)の看病に務めながら元夫・園田直さんを待ち続けたということです。
いつの時代も、不倫は周りの人を不幸にするものです。
名前はきれいな「白亜の恋」ですが、実際はきれいでも何でもない、ただの泥沼だと感じました。
この「白亜の恋」がきっかけで、天光光さんはその後の選挙で落選が続き、ついには政治家の道をあきらめ、夫のサポート役に専念します。
園田直さんは厚生大臣として1968年にイタイイタイ病や水俣病の公害病認定し、1978年に外務大臣として日中平和友好条約をまとめました。
天光光さんはその間、夫を公の場でも家庭でも支え続けました。
まとめ~朝ドラになりそうな松谷天光光さんの生き方~

1984年に天光光さんの夫・直さんが死去し、天光光さんは、34年ぶりに立候補。
直さんと前妻の息子(次男)の園田博之さんとの激しい議席争いが、その名の通り「骨肉の争い」として話題になりました。
選挙に破れた天光光さんは、政界を引退し、国会外での活動に専念されました。
そんな天光光さんが晩年に残した言葉がこちらです。
私は『自分の運命に逆らわない』。自然体の生き方を大切にしている。
「いまは、心の餓死防衛が必要な時代ではないでしょうか」
松谷天光光さんが必死で生きた昭和とは全く違う令和の時代。
女性の社会進出も今でこそ当たり前になったものの、他の新しい問題が続々と出てきました。
心の問題が多すぎる現代だからこそ、天光光さんが残した言葉が余計に重く感じますよね。
そんな天光光さんの生き方をモデルに、朝ドラが放送される日も近いかもしれません。